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ふるさと頸城(新潟県上越市)の小さな歴史探し


by dreamkubiki
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珍しい“頸城”という地名

 人に名前があるように土地にも名前があります。
 私たちの住む「頸城村」(平成17年1月1日以降は上越市頸城区)はいつごろどのようにつけられたのでしょうか?。特に「頸城」(くびき)や「大瀁」(おおぶけ)は難読文字にあげられていて、そのままではなかなか正確に読んでいただけません。 
 学生時代、東京の友人に「頸城村」と話したところ、「えっ、首切り村?」と聞き返されたことがあったが、耳慣れない人にとっては、不気味な語感を持ったようで「まるで八つ墓村みたいだね」なんて笑っていた・・・。珍しい“頸城”という地名_e0112871_11583358.jpg
  平成9年(1997)にほくほく線が開通し、「くびき駅」や「頸城の押し寿司」が全国的に知られるにつれ、「頸城」とはどういう意味なのかという問い合わせが増えるようになりました。珍しい“頸城”という地名_e0112871_115929100.jpg
「頸城」は難読のうえ、非常にインパクトのあるひびきがあり、私たちが想像する以上に個性的な地名に感じられているようです。







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 昭和32年(1957)、町村合併促進法によって誕生した「中頸城郡頸城村」は、古くは上越地方をさした久比岐地方(頸城平野)の語源までさかのぼります。古代文書では、奈良時代の天平勝宝4年(752)に「久疋郡」(正倉院庸布)、「頸城郡」(東大寺文書)と記されています。
 また、郡名由来については、「国引き」説、古志(腰)(=古志郡)に対する「頸(首)」説、蝦夷を防ぐための「杭柵(くひき)」説、「くびれた地」の称とする説がありますが、残念ながらどの説が正しいか確定されていません。
 ほかに大宝2年(702)越中国から越後国に属したころに中央勢力が、関所の意味を示す「キ(作・城)」として政庁を定めたとする説もあります。このように、頸城という郡名は、越後の住民がつけた名前ではなく、外から見た地名としてつけられた意味合いが強く、私たちの周囲の行政的な区分の地名は、一般的に地形もしくは方角が基礎となっています。
 いずれにしても約1260年前から、古代文書に「頸城」という地名が記されていたということは、当地は、古代国家にとっても重要な地であったことが窺えます。平成9年に榎井A遺跡から日本最北端の古代荘園跡を示す木簡が発見されましたが、「頸城」の持つ歴史的意義について今後ますます注目されていくでしょう。
 ところで、当頸城区(旧頸城村)は、室町時代後期(15世紀末)には頸城郡の中の「夷守郷(ひなもりごう)」に含まれており、豊臣秀吉時代の検地帳には「越後国頸城郡夷守郷・・・村」と記されています。その後、下美守郷(しもひだもりごう)と呼ばれるようになり、幕藩体制が確立された江戸時代の新田開発以降は、大瀁郷(おおぶけごう)と下美守郷に属していたことが古文書に記されています。
 そして、明治4年には、藩制が廃止され柏崎県の直轄地となり、明治22年の町村制施行で明治村・南川村・頸城村・北大瀁村の四村が誕生し、ここに近代的市町村制度の基礎が築かれました。
 その後、昭和32年に明治村と大瀁村が合併し頸城村となりましたが、48年後の平成17年1月1日、14市町村が合併し現在の上越市となりました。合併の歴史は、まさに消滅と再生?の繰り返しといえるかもしれません。

 数多くの市町村合併により衰退していく地域の土地の名前、古代文献にも記されてきた歴史的意義の深い地名を今後も、個性ある地名としてまた、将来への文化遺産として受け継いでいってほしいと思います。

(参考文献) ・角川地名大辞典15(新潟県) 1989
        ・新潟県の地名 越後・佐渡地名を語る会 1996 
        ・頸城村史 通史編 頸城村  1988

※写真は閉村記念誌「育みの大地とともに」より転載。
by dreamkubiki | 2007-02-04 16:06 | 土地の名前